2018年1月1日。今日、公開されたtrolleattrollのMVの金子理江(彼女のことはあまり知らない)のステートメント

 

わたしは、
わたしでありたいのか、
わたしのなりたいわたしでありたいのか、
いつもわからなくなります。

そして、わからないことが、
わからなければいけないことなのか、
わからないままにしておくべきことなのか、
考えるだびに、わたしはわたしから遠ざかってしまう。

むき出しのわたしはきっと、恥ずかしい。
この曲で、わたしははじめて、恥ずかしいことを自分に許します。

それはわたしの、小さな勇気です。
わたしの感情を、受け取ってください。

 

に感化された23才です。曲は実際、10代の<わたし>に捧げたものになっているんだけど、自分は今までの22年間に捧げるものがなにかあるなと思い立ち、ブログでもはじめてみるかという感じ。実際、2017年の後半は<わたし>の在り方を自問自答し続けたタームが続いた。それはミクロな半径5メートルの環境からマクロな情報社会の大雑把な領域に順応、または応戦し続けていた結果、化けてしまったキメラのような<わたし>であったのか否か。2017年の後半、めちゃくちゃ噛み砕いていうと

 

 

今どこへ 今はいつも 今はどこかへ 向かう途中なの?

さっぱりわからないってことだけわかるの

きっと心が きっとひとりじゃ

きっとやせっぽちになってく

耕すことをしなくちゃね

喜びわかちあい 大声で笑いたい

誰かと出会いたい 苦しい出会いでもいいよ

 

こんな感じでもあって、好きなカルチャーに殺されていく感覚があった。そもそもカルチャーを追いかけるために家から足を運ぶ回数が死ぬほど減った。

 

好きな映画や 好きな音楽とかに 影響されすぎて 今を見失うなよ

 

SMAPのLet It Beかよ。みたいな感覚も少し。いや、というか、好きでもない情報を入れすぎたせいで、また、特に興味も無いことをなんとなくやってみたりしていたせいで、何がなんだかよくわからないことが自分のなかで起こっていたというほうが正しいんですけど。特に服が一番問題だったと思う。虚飾してなにかと戦いすぎていた。一番お金を浪費するものは自分を束縛し続ける。なにかとルールも決めてたし。生活の延長は自由であるべきはずだった。それもあって、違うことに熱心になれていなかったのだろうなあと。なにはともあれ、いま、ここの所在の無さがなんとなく続き、年の瀬にぱらぱらとWIRED『Identity』を読んだりだとか(まだ序盤しか読んでないですが國分功一朗氏と熊谷晋一郎の対談がやばかった)、メルカリで『人間学とはなにか』を購入するなどと、人間について悶々としていたんですけど、まあ、幾度となく人生の小さな岐路にたたされながらカルチャーで寄り道をして自分を保っていたわたしからすれば、本当に好きだったものたちに向き合って触れ合ってさえいれば、それを愛してやまなかった自分らしさなんてもんは簡単に取り戻せるのかなと。要はこれからを生きていくためにいま、ここに取り敢えずさっさと地に足つけてえなって感じです。2018年は個人的に割とでけえ関門があったりするので、ライフワークバランスに関してはまじで頑張りたい。

 


 

I am eccentric 変わり者でいい

理解されない方が よっぽど楽だと思ったんだ

他人の目 気にしない 愛なんて縁を切る

はみ出してしまおう 自由なんてそんなもの

 

を胸に十字に刻み、〈わたし〉らしくある為の、好きなことについての記録をやっていきます。そこは、誰かが知ってるわたしらしく適当に。